第27回 「ブラックホールを見つけた男」の言葉

 

 

 

アーサー・I・ミラー著、阪本芳久訳、「ブラックホールを見つけた男(上、下)」(草思社文庫、草思社、2015年12月:単行本は2009年)は天文物理学の先駆的な研究をしたインド出身のS.チャンドラセカール(以下、Cと略記)の評伝ですが、そこにはA.エディントン(以下、Eと略記)との確執が詳しく記されています。本書を読んだのは今年(2019年)の半ばでしたが、その後本稿を執筆する意欲がわかず、4か月ほど保留していました。なぜなら、本書は科学者と呼ばれる人たちの思考の裏面の暴露でもあったため、不快な思いが続いたからです。
本書が取り上げる「1935年1月11日」の出来事から始まるEからCへの熾烈な攻撃は現代科学の歴史において極めて異常なものだったようです。本書はEのことをうぬぼれの強い「疫病神」と捉えています。同時にEは「口の重さ」と表現されるイギリス人特有のよそよそしい内気さを備えており、それがEに孤独な人生を余儀なくさせたとも指摘しています。日本でもプライドの高い科学者の中にはそのようなタイプの人間が時たま見られます。科学者に関して道徳的な心の広さと学問的な能力との間には必ずしも相関は無いことが実感されます。
本書のあらすじは次の通りです:1935年1月11日、王立天文学協会のロンドンでの会合で若きC(24歳)は白色矮星の重力崩壊について講演しました。Eはその次に講演しました。Eはこのとき53歳、その当時の天文物学を創始した帝王のような存在でした。この講演でEはCの結論を、理由を述べないまま頭こなしに否定しました。その結果、ブラックホールの研究は40年遅れたともいわれています。このEの仕打ちはCを深く傷つけ、Cの人生に大きな負の影響を与えました。ファウラー、パウリなどの著名な科学者の中にはCを支持する者もいましたが、彼らは決して公の場ではそれを言いませんでした。「君子危うきに近寄らず」の心境でしょうか?その後、物理学の助け(ランダウの中性子星研究、オッペンハイマーらによるシュワルツシルト半径の研究など)を借り、米ソ冷戦の時代の軍事研究(地上の星としてのテラーの水爆開発、ソ連での水爆研究の進展、国防上の重要課題としての超新星爆発の研究など)、さらには新しい天文現象の発見(中性子星の発見、ドップラー効果から得られたハッブルの法則の発見、電波天文学による謎の電波源の発見など)を経て、遂には異常電波源の中心とブラックホールの議論に到達し、Cの主張の正しさが実証されるのですが、このような科学上の流れと運命は現代の私たちの身の回りにも多かれ少なかれ実例があります。
本書末尾で著者と訳者がコメントしているように本書はCを通して最大級の科学的発見の背後にある複雑な人間の物語を垣間見せます。自身の考えと一致しない結果をはねつけたときのEのように、科学者も常軌を逸した衝動に駆られることがあるかもしれません。科学者たちは自分が全力で打ち込んでいる知的営みのとりこになってしまっていることもしばしばで、そこに伴う緊張や競争意識が精神に悪影響を及ぼす場合もあります。そのような賭けをしている科学者たちは、道徳的な心の広さとは相いれない対応をとることがあります。なお、これは私自身の回りの研究分野でもしばしば見られます。Eは「星のばかげた振る舞いを防ぐ自然の法則があるはずだ」と主張しましたが、その根底にしっかりとした理論的基盤や観測による証拠があったわけではありません。それにも関わらず、ミルンなど、他の天文学者たちは学界でのEの権威を恐れ、だれ一人Cを擁護しようとしませんでした。Eのように激高しやすい人間の取り扱いにはいつの時代でも苦労しますね。
以下ではまず、本書のかなりの部分を占める「Eとその人格にまつわる記述」について紹介します: Eは深い物理学的洞察力をもっていたにも関わらず、つねに予断を持って研究をしてきたようです。そもそもEをはじめとする大多数の天文物理学者は、星のような大きなものが無限に小さくなる場合もあるということなど、いわば「特異点」の存在を断じて信じようとしなかったのです。そしてEはこの「奇妙な問題」を無視してはどうかと述べ、そうしても「致命的なことにはならない」と付け加えたりもしました。新しいことは無視する・そのための理由づけもいとわないという傾向は現代の科学でも見られ、かつて学校秀才だった人が科学者になると時折ある振る舞いです1)。Eは「パウリの排他原理は自然の普遍則ではない」とさえ言い張ったそうです。Eの権威と、怪しげな前提をもとに正しい結果に到達する超人的な技量のせいで、天文物理学者の多くはEに反論する気になれなかったようです。要するに彼らはEのカリスマ性の呪縛にとりつかれたのでしょう。現代でも若手の科学者が権威者に対して反論する勇気を奮い立たせるのは大変でしょうね。自然現象には素直に向き合わなくてはならないのですが。
EがCの理論にあれほどまでに反対した本当の理由は、Cの理論がEの理論を根底から覆してしまうからだったのです。EはどうあってもCの得た結果は誤りでなければならないというほどまで自分自身をがんじがらめにしてしまいました。―-誤りでなければ、Eの権威全体が崩壊してしまうのですから2)
科学界で成功するには、単に優れた着想があればよいだけでなく、手練手管を用い、他のすべての人と計画を練る事が重要なようです。まさに当時の天文物理学界でも見解の相違には「政治的な」性格がありました。現代でもまさにそのような状況が続いています。
次に「Cとその人格にまつわる記述」です: まず印象的だったのは研究上、さらに就職活動上不利に作用したのは、Cがイギリスの植民地のインドで生まれたことです。また、E自身も若いインド人の科学者に恥をかかせてやろうという卑劣な衝動に駆り立てられたようです。やがて物理学界の有力者たちはCに味方するようになったとはいえ、CにはEを無視して研究をつづけるほどの内面の強さは無く、時代の第一級の天体物理学者に正面から立ち向かう気はなかったようです。現代科学でも権威には打ち勝つことは難しいでしょう。しかしその権威者もいずれは舞台から去ります。そのときまで研究を継続し、その後発展させることが勝利の秘訣ですね。
1942年、ついにデイラック、パイエルス、プライスがCを擁護するとともに、「Eは自分の目的を達成するために数学を巧妙に利用している」と指摘しました。そしてCは「いま私たちが真剣に考察している状況というのは、それほど遠くない過去に、議論の行きすぎだとして無視されたものだった」と述べました。これは旧守派・保守派が新説を無視する行動をとることを指摘した的確な発言です。一方、このころCは基礎定数の組み合わせを使って、安定な白色矮星の最大質量を表す方法を探っていましたが3)、1960年代に始まった研究の進展のおかげで、ついに1930年のCの発見の正しさが立証され、Eが間違っていたことが明らかになりました。CとEとの間での確執の学術的な原因の一つに、天文物理学は実験データが非常に少ないため数学、概念、英知をもって理論を組み立てるという事情がありますが、最後にCはそれを乗り越えることができたのです。
Cは込み入った多数の数値計算にも記号計算にも取り組むタイプの人間だったようですが、1935年の発見の後は革新的な研究を目指そうとはしませんでした。Cは最晩年に至るまで、いつも突出することを恐れていました。ようやく最後になって、理論物理学者になりたいという望みが実現したと感じることができたようです4)。Cは人生の目標を達成するには天体物理学を諦めるしかないことがわかっていたと思われます。これはインド人ゆえの諦めかもしれません。これは本書に「忘れよう、金輪際気にしないことにしよう、私には翼はなく、いつまでもこの地に縛り付けられていることなど。」という表現で記されています。
Cが1935年1月11日の出来事を振り返らなくなることは決してなかったそうです。EのイメージがいつまでもCにまつわりついていたのでしょう。CにはEから被った精神的な打撃に負けまいという強い意志があり、それに基づいて他の研究分野に転じたとのことです。逆境が糧となることの例ですね。
1967年、ホイーラーは、崩壊した星が落ち込む空間の領域を「ブラックホール」と命名しました。これを機に研究が加速しました。これは研究を継続すれば、やがてしきい値を超え、加速することのよい例ですね。このころになるとブラックホールに対する認識は一変し、宇宙の調和を台無しにする醜悪で手に負えない天体として拒絶されていたころとはうって変わって、「存在する最も完璧な天体」と考えられるようになっていたのです。あの1935年1月11日の状況とは全く正反対です。これもしきい値を超えた後の典型的な現象といえます。今や結論として言えるのは、宇宙にはブラックホールが非常に多く存在するはずだということです。
Cは1983年、ノーベル物理学賞を受賞します。一般に受賞後は実入りのいい講演の仕事や管理職的な地位への昇進の話が多数持ち込まれるため、研究を諦めるしかない科学者もいますが、Cの場合は正反対でした。1980年代には、CはEよりもはるかに高い評価を得ていたにもかかわらず、Cの心にはEが重くのしかかったままだったようです。若いときの経験はトラウマとなり残りましたが、Cはこれを糧とし新たな研究領域に足を踏み入れました。現代では大学の研究者は教授昇進・定年の結果、研究を自ら止めたり諦めたりする人が多いようです。教授昇進後は組織運営や会議などの雑務に埋もれず独創的な研究を加速しなければなりません。むしろ定年を機に新たな研究領域に足を踏み入れる弾みをつけられます。
現在ではX線観測衛星チャンドラでのブラックホールの観測などが試みられています。本書では「いずれは実験室でブラックホールを作れるようになるのだろう。」ともコメントしています5)
最後に少し脇道にそれますが本書の中でC.V.ラマンについての記述が気になりました。ラマンはCの叔父であり、光のラマン散乱現象を発見して、インド初のノーベル賞物理学賞を受賞した著名な分光科学者です。しかし冒頭に記したように道徳的な心の広さと学問的な能力との間には必ずしも相関が無いとことがあてはまる人物のようです。これはラマンに対する私のこれまでの先入観とは異なります。ラマンはCへの並外れた賛辞を贈りつつ、「バンガロールでは天体物理学者など一人もいなくてもいい。」などと述べ、Cに思慮を欠くひどい仕打ちを繰り返しました。そのためCの一家はラマンの横柄さとうぬぼれの強さを嫌っていたそうです。さらに、ラマンはもう一人のインド科学界の二大巨星であるサハに対する根深い不和のもととなる対抗意識が芽生えていたそうです。これは研究者間でよくみられる妬み、やっかみ、足の引っ張り合いですね。見苦しいことです。


1)我々の身近な分野ではオンシェル科学がすべてであると信じている人たちです。この予断にもとづく反論が近接場光、ドレスト光子の研究初期にはよく見られました。
2)オフシェル科学の場合、それはオンシェル科学を覆すのではなく、互いに重複せず、補完的な現象を扱っているのです。
3)ドレスト光子の場の最大寸法の推定方法もこれに類似しています。
4)ドレスト光子の研究がまず実験によって進展し、その後理論研究が進展したのはこれと類似です。
5)ドレスト光子とそれがもたらす諸現象の中には素粒子物理学、天文物理学と類似のものがあります。まさにドレスト光子はテーブルの上で素粒子実験、天文物理実験を行えることを可能にする量子場です。

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