第29回 「アレキサンダー・ウィリアム・ウィリアムソン伝」の言葉

 

 

 

犬塚孝明著、「アレキサンダー・ウィリアム・ウィリアムソン伝」(海鳥社、2015年7月)〔副題:ヴィクトリア朝英国の化学者と近代日本〕は今年(令和元年)9月の札幌出張中に札幌市内の書店でたまたま見つけて購入した書籍です。アレキサンダー・ウィリアム・ウィリアムソン(Alexander William Williamson, 1824-1904、英国:以下Wと略記)はアルコールとエーテルの研究で知られる英国の化学者です。研究上の業績については、本書中にボイル、ケクレ、トムソン(ケルビン卿)など、著名な化学者の名前が散見されることから、Wは彼らの何人かと交流し、活躍したのだと思います(私はWの化学者としての研究業績をあまり知りませんでした。不勉強を悔いております)。

なお、本書はWの研究上の業績のみを紹介しているのではありません。幕末に命を賭して密航した長州ファイブ〔長州藩の5名:井上聞多、伊藤俊輔、野村弥吉*など〕と薩摩スチューデント〔薩摩藩の19名:4名の視察員(五代友厚など)と15名の留学生(森有礼、磯長彦輔**など)〕を受け入れて教育し、日本近代化を支えた偉大な化学者として、さらに「世界」を知らしめた「知の巨人」としてWを捉え、「日本の恩人」と称されるWの生涯を追っているのです。Wはなぜ当時は後進国である日本からの留学生を相手とし、労多い教育活動に献身的に携わったのでしょうか? 本書ではその理由をWの生涯の理念である「異質の調和」をという言葉で表しています。生まれつき体が弱かったWは右目に障害を抱えていました。しかし自らの強い意志と精神力、さらには「思慮深く」、「辛抱強く」、「博愛の心」の資質をもった姉ヘレンの励ましに支えられ、この障害を乗り越えて研究者への道を進みました。その結果Wは「科学的な信望」、「性格の力強さ」、「世界主義的な視野」を兼ね備える人物として育ちました。本書では「世界主義的な視野」を「異質の調和」と言い換えています。Wが日本人留学生の教育と人物育成を成し遂げたのは自身(とその妻エマ)の奉仕精神、道徳心に依存するところが大きかったのです。

本書の後半ではWの教育を受けた日本人留学生の活動に焦点が当てられています。この中で当時薩摩からの留学生をたびたび自宅に招いた下院議員のオリファントは彼らに英国・欧米諸国の抱える社会的、道徳的問題点を客観的にかつ熱心に伝えました。オリファントの政治家としての客観性と公明正大な世界観を感じます。オリファントの教示に導かれ薩摩藩からの留学生たちの内部に西洋批判の精神が醸成されました。そして彼らはWの学問、思想をそのまま日本に持ち帰るのではなく、彼らなりに自己の内部でそれを咀嚼し、日本の実情に即したものに変えて祖国に根付かせようとしました***。実際彼らはこの旨を記した建言書を薩摩藩に送っています。これは彼らが西欧の真髄に近づいたことを意味しています。このように彼らが明治維新以前にすでに欧米社会を批評する目を養い、日本の進むべき方向を探る境地に達していたことは驚きです。これは現代の研究にもつながります。すなわち欧米に無条件に学び追随する研究は不適当であり、「批判の精神」を通じて「独創性の真髄」を見つける必要があるのです。

当時日本では各藩が互いに独立、いわば藩自体が国家でした。さらに当時は薩長の関係はあまり良好ではありませんでした。しかし長州藩と薩摩藩からの留学生たちが相次いで渡英し現地で合流したことにより、お互いにわだかまりもとけ、薩長という藩の枠を超えて日本人としての意識に目覚め、日本という国家単位の認識が芽生えたようです。上記の建言書は彼らが認識した近代日本国家のあるべき姿を提言したものと言えましょう。

ただしその頃の留学生たちの軋轢や苦闘には想像を絶するものがあったようです。彼ら自身が「異質の調和」を実現するのにかなりの努力と歳月が必要でした。そもそもこれらの留学生は当時鎖国政策をとっていた幕府の目を盗み、密航の形で渡英したのです。彼らの渡英は薩英戦争により露呈した技術力の貧弱さの解決の糸口を見出すための思い切った行動です。彼らは今では考えられないほどの長い船旅をし、資金不足などによる身体的な苦労が多く、中には結核などの病に侵され、客死する者もありました。そのような中で、現地での勉学に励んだ日本人の中には優れた学業成績をあげた者もいます。野村弥吉は1866年の地質学クラスの全学試験で優等生(第3位)となりました。さらに桜井錠二は1877年の化学で1位、78年の化学・物理学の合同試験で主席をとり、Wの高弟として頭角を現し、1879年にはロンドン化学境界の終身会員に選ばれました(日本人で最初に選ばれたのは、1872年、薩摩藩からの留学生、吉田清成)。

上記の苦労の他、言葉の不自由さなどがあったにもかかわらずこのような優れた結果を残し、かつ上記の提言を残した彼らを見ると、日本人の優秀さ・勤勉さに裏付けられた非常なる熱意を感じ、彼らを生んだ江戸時代の文化・教育・道徳レベルの高さに感銘を受けます。彼らは帰国後、明治維新後の日本の国家事業に貢献します。野村弥吉(後年、井上勝と改名)は鉄道発展に寄与し、日本の鉄道の父と呼ばれています。一方、桜井錠二は日本人初の大学教員として化学教育の礎を作りました。当時東京大学ではすでにエアトンなどの外国人教員が教育に貢献していましたが、日本人の専門研究者を教授に据えることが東京大学の悲願でもありました。そのような中、英国からの帰国翌年に桜井は弱冠24歳で理学部における日本人初の化学教授に就任し、以後は日本化学界の泰斗として君臨しました。

本書が最後に指摘しているように「異質の調和」を生涯における一大事業と考えるWにとって、英国の近代化学、あるいは近代科学研究法そのものを日本の近代化事業に接ぎ木し得た喜びは何物にも代え難かったでしょう。まさに英国文化と日本文化を融合したからです。Wは「近代日本のパイオニアたちすべての仕事」に関心を払い、帰国後の彼らが祖国でどのような貢献をしているかに注目していたようです。まさに教育にはアフターケアが重要であることの良い例ですね。Wが日本の若者たちに懸命に伝えようとしたのは「科学そのものを勉強する精神」だったのです。学問(さらに研究)は「何を」やるか?ではなく、「なぜ」、「いかに」やるか?を伝えようとしたのでしょう。現代でどのくらいの人がこれを実践しているでしょうか?

本書には美しい写真が多く掲載されております。これは編集者、デザイナー、写真家などが現地資料を確認しつつ、写真撮影したものであり、本文で書かれていることの実証資料として興味深く味わうことができました。文章を読むと19世紀後半の英国史、日本史に触れることができますが、さらに目に触れた風景写真(日本人留学生を含む登場人物の墓など)や文書などが意外なまでに新鮮であると感じました。本書のメッセージが現代とつながり、Wおよび日本人留学生の精神が未だに息づき、それらが我々に警鐘を鳴らしていることに気づきます。

書店でたまたま見つけた本書により19世紀後半の英国の学者であるWの高潔な人物像に触れ、植民地活動の一方でこのような人物を輩出した英国の良心を知ることができ、久しぶりに心洗われました(第27回の場合のとはだいぶ異なる読後感です)。

(*)後年に井上勝と改名。上記の写真はJR東京駅丸の内前広場で東京駅舎を見守る井上勝像です。
(**)薩摩スチューデントの中の最年少。掲載写真を見ると身体が未成熟で小さく、あどけない顔であることがわかります。弱冠13歳でした。
(***)日本の技術者は外国で発明されたものをより使いやすく改良することに優れているといわれます。これも「日本の実情に即したものに変えて」使いやすくする方便なのでしょう。技術の場合、これは「人まね」との誹りを免れかねませんので、本来ならば改良するのではなく発明したいものです。

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