第22回 「辞書になった男」の言葉

 

 

 

佐々木健一「辞書になった男」(文芸文庫:文芸春秋社 2016年)は国語辞典を編纂した見坊豪紀と山田忠雄の仕事ぶりや国語辞典に対する考え方の違いなどを、ゆかりの人達へのインタビューを通じて記したものです。見坊は金田一京介編「明解国語辞典」をほぼ独力で編纂し、山田はそれを補助しました。「明解国語辞典」は金田一京介編となっていますが、本書では実は金田一は編纂には直接関与しておらず、見坊と山田の貢献が大きかったことを指摘しています。この例に見られるようにその当時の辞書の編纂には名義貸し、編纂の丸投げがよくあったようです。これと対比して理系の研究の場合を考えましょう。理系の研究では、その成果としての論文を出版する際に研究に直接関与した関わった人達が共著者となりますが、その際に名義貸し・研究の丸投げのようなことは起らないでしょうか? 十分気をつける必要がありますね。

なお、その後二人は独自の道を進み、見坊は「三省堂国語辞典」を、山田は「新解明国語辞典」(ともに三省堂刊)編纂しました。このように二人が異なる道に進んだ理由は、両者が掲げた理想の違いにあるとのことです。見坊は大規模な用例採集に基づいた辞書作りを「理想」に掲げました。しかしこれは改訂に膨大な年月を有するという事態を生じました。一方山田は当時の辞書界にはびこる盗用体質を憎み、言い換えや堂々めぐりを打ち破る「理想」の辞書を作ろうとしました。また、見坊は主幹交代しながら複数の編者で編纂し、山田は一人の編集責任者のもとで編纂する方針をとりました。

以前、国語辞典の編纂を取り上げた小説として三浦しをん「舟を編む」(光文社文庫:光文社 2015年)を読み、編纂とはいかに根気の要る仕事であるかを実感しました。今回も同じ思いを再確認しましたが、加えて著者の佐々木も記しているように理系の研究と似たところがあることを痛感しました。見坊のご子息も「父は完全に理系の頭。辞典も“データベース”のような感覚で作っていた。」と述べています。さらにご子息は見坊から予断や偏見、世間の常識などで判断せず、何事も好奇心に従って自分の目で確かめることを教わったそうです。これこそまさに研究に取り組む態度に他なりませんね。

本書を読んだ後、特に山田の言葉が忘れえず心に残っています。以下ではそれを紹介し、さらに著者の佐々木の言葉も紹介しましょう。

【山田の言葉】山田は従来の辞典が先行する複数の辞典の内容を適宜に取捨選択して作られている傾向を憂い、模倣を許さないという方針で新しい形態の国語辞典を編纂しました。それが「新明解国語辞典」です。その初版には「いもじしょ(芋辞書)」という項目があり、それは「大学院の学生などに下請けさせ、先行書の切り張りによりでっち上げたちゃちな辞書」と説明されています。これを「芋研究」と読み替え、説明文中の「先行書」を「先行研究」に、「ちゃちな辞書」を「ちゃちな研究」としてもそのまま成り立つと思いませんか?

山田はこのように「真似してもしょうがない」という考え方で「新明解国語辞典」を編纂しましたので独特な語釈が多く見られます。その内容は赤瀬川原平「新解さんの謎」(文春文庫: 文芸春秋 1999年)にユーモアを交えて紹介されており、私もこれを読み強い興味を覚えました。

かつて明治政府が主導して企画されたいわば官製の辞書は複数の編者が議論ばかり繰り返し頓挫したことを鑑み、山田は一人で「新明解国語辞典」を編纂したとのことです。独創的な研究の発想は各研究者の頭の中から沸いて出てくるものですので、その成果発表である論文の著者数も極めて少数になるはずですね。

山田が新しい形態の「新解明国語辞典」を刊行した理由は「明解国語辞典」への自己批判であったとのこと。後者の解説は他の辞典の単なる「言いかえ」と感じ、また客観性も疑問視していました。従来の辞典を否定し、全く新しいものを創造したのだそうです。研究でも従来の研究の改良・すなわち量的変革の研究と、従来には無い新しい研究・すなわち質的変革の研究とがあります。「新明解国語辞典」はいわば質的変革の辞書といえましょう。研究でもこれを狙いたいものです。

「新明解国語辞典」のユニークな点は、山田の「辞書は文明批判である」とする主張が盛り込まれていることだそうです。それを説明するため本書ではA.ピアス「悪魔の辞典」(奥田、倉本、猪狩訳)中の「辞典」の項目が引用されています。それは「一つの言語の成長を阻止し、その言語を固定した融通の聞かぬものにするため工夫された邪念のこもった文筆に関わる装置。ただし本辞典は極めて有益な作品である。」です。末尾の一文は自己弁護のように思えますが、「辞典」を「研究論文」に、「言語」を「研究」に置き換えると、研究に関わる人間に対する戒めにもなっています。

【佐々木の言葉】著者の佐々木は本書の末尾に「各々の言葉の意味が辞典によって異なるのを避けるため、国が主導して一冊の国語辞典を編むべき」という考え方に反論しています。なぜなら時代とともに変わっていく言葉を絶対的な決まった意味に限定することは国や権力が思想を押さえ込むことにつながるからだそうです。

研究もこれに似たところがあります。大型の研究プロジェクトは国の主導で進められます。その策定根拠は社会のニーズに応えるためであることが多いようですが、そのような研究は独創的な研究とは限りません。有識者と呼ばれる人達と役人とが協力して世界の動向を探り、先進国の新しい研究開発の動きを我が国の社会のニーズと捉え、「それに遅れず、追いつけ追い越せ」の号令のもとにそのような先行研究がプロジェクトとして採択されます。先進国ではその研究に大型の予算をつけていますが我が国の場合、研究が頓挫したときの批判をかわすためかその予算額は申し訳程度の場合があります。このように「動き出したバスに飛び乗る」ため「頼りない足腰で走り出し」ても追いつくこともできないのではないかと危惧します。

研究で大切なのは何よりも独創性です。それは先進性にも相当します。しかしそのような研究を推進するための研究費を国民の税金によって賄う限り、独創性とは相容れません。研究は国や権力が決めるものではありません。独創研究のためには研究予算も自給自足、いわば研究の民営化が必要です。「独創的な研究、優れた研究を推進するために国は研究者に十分な研究費を配分すべきだ」という主張はもはや的外れで、「独創的な研究をするのであれば、研究者は経済活動の収入として、研究費を得るべき(自給自足)」でしょう。

上記の山田は「我が国の国語辞典の水準はきわめて低い。競争品が現れて欲しい。そうすると水準の高いものもでてくる。」と述べていますが、民営化により多様な研究が可能となり、この多様性からやがて独創的な研究が産まれてくるのでしょう。もちろん社会倫理に反する研究は困りますが。

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